乱
乱
黒澤明
発売日:2003-03-21
おすすめ度 ★★★★★
売り上げランキング:12706
???シェイクスピアの『リア王』をもとに、人間の業をまざまざと描き出す、黒澤明監督晩年の戦国絵巻。一文字家の党首・秀虎(仲代達矢)は3人の息子に家督を譲ろうとするが、それがもとで兄弟の骨肉の争いが始まり、やがて秀虎は発狂してしまう…。
???監督本人いわく「自らのライフワーク」と語っただけあって、そこには自身の人生観を凝縮させたかのような壮絶な思いと、仏にすら見放されたかのような人間たちに対する祈りといったものが見え隠れする。
???前半のクライマックスとなる三の城炎上の際、一切の効果音をやめ、武満徹の音楽だけで、荘厳な地獄図絵を見せつける演出のすさまじさ。ワダエミがアカデミー賞衣裳デザイン賞を受賞など、それぞれのスタッフワークもすばらしい。(的田也寸志)
★★★☆☆ 2006-10-15 どよーん・・・
同じ時代劇でも(初期の)「水戸黄門」や「江戸を斬る(西郷輝彦主演の)」に慣れていた私にとって「どんな素晴らしい作品だろう。」と思って期待してみたら、この「乱」は「どよーん・・・」という感じだった。なんとも掴み所が無かったのである。観終わった後も「どよーん…」としていた。「何が言いたかったのだろう…」と。何か「狂気じみたもの」は感じたが、それ以外は特に何も感じなかった。別に不快というわけではないのだが、なんかこう首を捻ってしまうのだ…「また観たいか?」と訊かれれば「うーん…」と困ってしまうだろう。(あまり過大な期待を持って観るとダメみたいだ。これは予備知識として「黒澤は名監督だ。”世界のクロサワ”だ!!」という意識が有って「そりゃあよほどの名作に違いない!!」と思って観たら「あら?これだけ??」となってしまう。)
★★★★☆ 2006-10-07 黒澤を失った時代に
「乱」は黒澤にとってライフワークだったと黒澤自身がどこかで言っていた。公開当時も鳴り物入りだった記憶がある。大学生であった小生も 言葉通り映画館に駆けつけた。見終わって どちらかというと失望した記憶がある。「椿三十郎」や「七人の侍」の作者が この程度なのかと。
公開されて20年が経ち 小生もいささか年を取った。その分 落ち着いて考えられるように少しはなった。今考えてみて「乱」は その志においては 高いものがあると思う。リア王を日本の時代劇に翻案するということ自体が 十分に実験的だ。「蜘蛛巣城」で既にマクベスの翻案に大成功した黒澤にしては ごく自然な流れだったのだとは思うが。
映像、美術、音楽、衣装の見事さも確かだ。カラー映画としての黒澤映画を考えると 本作が最もカラーを活かした作品である。
役者はどうか。小生は 今でも 仲代達也とピーターの造形が デフォルメされすぎたと思う。もう少し 普通で地味な造りにしても良かったのではないか。特にピーターの役は 本作の最大の隠し味であることもあり もう少し 枯れた部分があるべきではなかったかと思う。
黒澤を失ってずいぶん時間が経った。この喪失感を埋めてくれる監督は現れてこない。現われようもないのかもしれないが。
★★★★★ 2006-09-29 私が初めて見た黒澤作品
中学の終わりか高校あがったばかりの頃の作品。シェイクスピアにも黒澤監督にも興味
なかったガキでした。
この映画の数年前にテレビで影武者をものすごい勢いで取り上げていて、それらで黒澤監督
の名を初めて知り、新作が封切りされると聞いて映画前売りを買いました。
その前売りデザインが主の無い兜の群れで前立てが個性的なデザインが多く、とても美し
かった。
冒頭(後に知りましたが熊本辺り?の山々だったとか)の雄大な風景に引き込まれ、後は
ラストまで(文字通り)時の流れを意識することなく作品世界に浸っていました。
老いた映像作家の美意識、ツボを押さえた演出。魅力的な群像劇。
これで監督の作品にいかれました。(とはいえ嫌いな作品もあるんですが)
その後自分であれこれ調べるようになってから、砦の寄せ方が画としての面白さだけを
追求している事に気づかされたりとか、がっかりした部分も出てきてはいるんですが
でもやはり初見の衝撃が私を捉えて離しません。
是非一度みる事をお勧めします。
付
鉄修理役の井川比佐志がいい役をもらって活き活きしてます。今でも彼のファン。
★★★★★ 2006-09-28 黒澤明の「リア王」−−不満も有るが、矢張り傑作中の傑作
シェイクスピアの『リア王』を戦国時代の日本に移植した、黒澤明監督の晩年の作品(1985年公開)である。黒澤監督の代表作と呼んで良い傑作である。『デルス・ウザーラ』公開後、製作が発表され、紆余曲折を経て完成した作品なので、『乱』が完成した時の嬉しさは忘れる事が出来無い。公開当時、映画館で何度も観たし、黒澤ファンである私が、この作品に抱く気持ちは深い。だが、溜息の出る様な素晴らしい部分と、少々失望を感じる部分が混在して居る事は否めない。先ず、不満から言おう。私の最大の不満は、原作の道化に当たる狂阿弥と言ふ狂言師の性格が余りにも軽い事である。−−その台詞にも演技にも、深さが無い。−−これは、私だけの不満ではない。例えば、公開当時、黒澤ファンとして知られる或る漫画家は、文藝春秋の座談会ではっきりと「ミスキャストだ」と発言して居たが、私は、ミスキャストだとは思はない。むしろ、脚本に原因が有ったと思って居る。他にも不満は有る。
その上で言ふが、この映画は、矢張り、傑作である。公開当時、淀川長治氏が言った様に、この作品には、『七人の侍』が有り、『蜘蛛巣城』が有る。又、秀虎と狂阿弥が隠れる城の廃墟には、『悪い奴ほどよく眠る』のあの工場のイメージが見て取れる。−−まさしく、黒澤監督の「遺言」だったと言ふ気がする。−−合戦の場面における自然の美しさや、落城の場面における火の美しさなどは、言葉では言ひ表せない。−−矢張り、傑作である。−−余談だが、私は、黒澤監督は、『リア王』をもう一回映画にした事が有ると思ふ。それは、『生きものの記録』である。黒澤監督の映画の何本かを、同時代に見る事が出来て、私は、幸福であった。
(西岡昌紀・内科医)
★★★★★ 2005-10-23 「乱」は「リア王」とは全く別の作品である
「乱」は「リア王」とは全く別の作品である、と理解したい。
「乱」は、単純化すれば、愛と憎しみの悲劇です。楓の方には、一文字家を滅ぼす充分な理由があります。あり過ぎる、と言いたい。でも、こういう愛憎の悲劇なら、古今東西いくらでもあります。「乱」は、そのような中でも第一級の作品であることは否定しませんが、原作の「リア」はそういう悲劇を扱っているのではありません。「神々に対する俺たちは、わんぱくどもにとっての虫けら。俺たちは戯れに殺される」(4幕1場)。父親が、血肉とも言うべき娘たちに命を狙われるということ。動機は様々に考えられますが、この非情さと不条理。子供が遊び半分に虫を捕まえて殺すように、人間が殺し殺されるということ。その意味で「リア」は不条理の悲劇と言えるでしょうが、「乱」は条理の悲劇でしかありません。「リア」は哲学ですが、「乱」は因果応報の物語でしかない(私は本当は、シェイクスピアはカントやヘーゲルのような哲学者よりも大きい、と言いたい)。
黒澤作品の脚本は大変高く評価されていますし、実際優れています。でも、この「乱」の脚本では、どんなに頑張っても壮大なスペクタクルにしかならない。それとも、リアを上演するのは大変難しいといわれていますから、映画化するに当たって、はじめから狙いを原作とは違うところに置いたのか(「リア王」に戦闘場面は一箇所もない!)? そうであるとしたら、ますます、「乱」は「リア」ではない、と言いたい。「蜘蛛の巣城」は「マクベス」である、という意見に、私は反対しませんが、「乱」は「リア王」である、というなら、賛成しません。
「乱」は、確かに凄い。でも、原作の「リア」は、もっと凄い!
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